私は以前から、行き過ぎた差別批判の問題を取り上げてきました。
今日はそれがとうとう限界突破いたしましたのでご報告です。
まずそもそも差別とはなんでしょうか。
『生まれや性別、人種や民族などを理由に、或いは理由なく、対応に差を付けて他人を不当に扱う事』です。
理由がある場合でも、度が過ぎる場合は、差別として扱われます。
しかし人間の価値観はみんな違うわけで、その理由が理由として適切なのか、対応が妥当なのかと言う所で意見が分かれ、それが差別か差別でないかという話になるわけです。
それに関して私は現在の状況を見るに、行き過ぎではないかと思い、意見してきたわけです。
そんな中、このほどとうとう、そのレベルを超える差別批判が起こりました。
#KuTooのそもそものスタートである、『葬儀場バイトでパンプスを強要された』という女性差別批判です。
#KuTooの運動にある、全ての事案を私は確認したわけではありませんので、ここでは#KuToo運動全てを批判するものではありません。
ただ、そのスタートとなったであろう上記の事案に関して疑問を伝えるものです。
そもそも差別というのは、定義の大前提として『差別する側と差別される側が存在』します。
白人による有色人種差別は、白人が存在しなければ起こりえない差別です。
〇〇人による××人差別は、〇〇人がいなければ当然あり得ません。
男性による女性差別も、男性がこの世にいなければ、絶対に起こりえない差別なのです。
なのに今回の葬儀場でのバイトでパンスプを強要された話というのは、男性がいなくても存在し得る問題です。
たまたまその対象が女性だったというだけで、女性を差別したものではありません。
こんな問題は、女性でなくても男性にも起こりえます。
何度も言っていますが、私はスーツにネクタイという硬い恰好をすると、肩が凝って頭が痛くなります。
ではスーツを着るのは男性差別なのでしょうか。
女性が男性に強要しているのでしょうか。
違います。
偶々男性に起こりえた問題であって、差別とは全く関係がないのです。
逆に言うと、こんな事で女性差別を言う方が逆差別をしていると言えるかもしれません。
社会の不具合を男性の責任と決めつけているわけですから。
※不具合かどうかも、価値観によって違います。
だからこの問題を取り上げるなら、何度も以前から言っていますが、習慣や風習といった無意識に理解しているものを変える事だけを訴えるべきです。
靴なんてそもそも時代によって変わってきているものですしね。
別に誰も女性をイジメようと思っているわけではないのですから、女性差別と言われても普通の人なら何かがおかしいと感じます。
普通に、デメリットを超えるメリットを訴えて、或いは流行りなどを作ってもいいです。
変に差別とつなげて訴えない方が良いと私は思います。
※※追記※※
ちなみに今回の場合、個人や企業、或いは第三者が差別をするという考えもあります。
その場合でも、今回のこの問題では差別に当たりません。
区別する材料である男性がいなかったとしても、当然この問題は起こりえますから。
差別意識がもしもあるような場合、男性がいなければ差別意識そのものが否定されます。
例えば男が大好きな女性が、他の女性に嫌がらせをする為に、頭の痛くなる帽子をかぶらせて仕事をさせていたとしましょう。
これは明らかにこの女性個人による女性差別になります。
何故なら、男性がいなければ女性に嫌がらせをする事自体あり得ないからです。
区別する要素である男性がいたから差別が起こったのです。
当然男性がいなければ起こらない嫌がらせなので、これは差別です。
つまり差別には、差別する側とされる側があり、更には差別されない人と差別される人がいるわけです。
大抵は差別する側と差別されない人というのは同じですが、そうではない場合もあります。
正確には、差別されない人達がいなければ起こりえない問題が差別と言えるでしょう。
区別する対象がいなければ起こりえない問題とも言えますね。
もっと分かりやすくいうと、差別されているとされる人達だけでも起こりえる問題は差別ではないという事かな。
それともう一つ。
今回区別要素を無くす為に男性がいなかったらって方法をとりましたが、区別するには区別する人、つまり差別した人がいるわけです。
今回は葬儀屋さんですね。
葬儀屋さんが誰であっても、今回の問題は起こりえたわけで、やっぱり差別とは言い難いですね。
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