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2018年4月26日木曜日

多様性のある世界。その中で多様化する日本社会。理想の世界を考えた時、多種多様な考えは何処まで許されるのか!

この前の記事を書いてから、多様性と多様化についてずっと考えていました。
人々は多種多様な考えを持っています。
だから世界は多様性のある世界となっています。
国ごとに価値観や文化、憲法や法律が異なり、それが地球という世界で共存しています。

そんな世界だから、今日本も多様化し、多種多様な考えを持つ人々の共存が求められています。
しかしちょっと待ってください。
多種多様な考えには共存できないものもあり、それを一緒にしてしまっていいのでしょうか。
価値観の違う外国人犯罪は、日本人の犯罪よりも多くなっています。
それは考え方が違うのですから当然です。
そうならない為に多様性のある世界があるのに、日本を無理に多様化するのは少し違うのではないでしょうか。

例えば私は世界は一つであるべきだと思っています。
しかし今世界の人々が一緒になって上手くいくでしょうか?
人を殺しても良いと考える人も少なからずいるわけで、そんな人がご近所に沢山いたら怖くて生活できません。
だから世界が分かれているわけで、世界の統一は、アメリカのような形が理想だと考えます。
世界政府を作り、世界で共通する価値観でまずは大きな法律や憲法を作ります。
そして後は地域ごとにそれぞれ決めればいいのです。
共産主義の地域があってもいいですし、銃を持っていい地域も人々が求めている以上無くせません。
私の世界統一の理想は、世界政府を作り、各国が一つの地域として独自の規律や文化を持つ世界です。
そこからは時間をかければ、ある程度共通の価値観が生まれてくるでしょう。
徐々に長い年月をかけて、統合していければ良いのです。

すぐに国まで無くして一緒くたにしていいという人は、一体どんな世界を望んでいるのでしょうか。
多種多様な考え方を全て認め合う事なんて不可能です。
殺人ですら、世界には正当化する人がいますし、日本にだって『何が悪いの?』と思っている人もごく少数ですがいるのです。
そんな考え方を認めて社会が上手くやって行けるとは思えません。
法律は何故存在するのでしょうか。
違う考えを持った人を排除する為ですよ。
殺人をして良いと思っている人を排除する為に法があるのです。
言論弾圧して良いと思っている人を排除する為に言論の自由が定められるのです。
法というのは、多様な考えを否定し、それを広め認識させる為のものでもあるのです。

とはいえ、ぶつかる考え方が半々になれば法整備も難しいですよね。
そこで多様性が求められるわけです。
つまり住み分けですね。
共産主義が良ければ中国や北朝鮮に移住すればいいのです。
拳銃が持ちたければアメリカ国民になる事をオススメします。
世界は既に多様性にあふれており、今更日本を多様化し多様性のある国にする必要はないのです。
それは国を分裂させるという意味でもあるのですよ。
『専業主婦がいいから法律に定めろ!』『いやいや共働きが良いから!』なんて争いが起こり、じゃあ近畿より西は専業主婦エリア、中部より東は共働きエリア、なんて決めるんですかね。
まあこれは現在共存できてはいますが、少子化という問題にもしかしたら繋がっているかもしれないわけです。
どちらかに決められたら、少子化対策も楽ですよ。
専業主婦なら今までの日本のように早くから子供を産めますし、共働きばかりなら社会ももう少ししっかりとした補助が可能です。
例えば共働きの場合は保育所が優先的に使えて費用もタダにすれば、少子化対策にはなります。
でもこんな共働き世帯を贔屓する法律を作れば、専業主婦世帯から文句が出ますよね。
自由に選べるのは良いですが、それには相応のリスクや歪みが生まれるのです。
これくらいならまあなんとかなると信じたいですが、どうしても共存不可能な価値観や考え方もあるでしょう。
その場合はどちらかに決めつけるか、或いは住み分けする以外に方法がないのです。

今は既に多様性のある世界であり 、ある程度住み分けが行われている状態です。
別の価値観を受け入れ、共存できるのなら良し、できなければやはり良いと思う人が多い方に決めざるを得ません。
それが嫌なら、自分の価値観にあった国に移住するのがいいのです。

そんなわけで、日本に多様な考えが入ってきて、それを議論するのはアリだと思います。
しかし共存できない多種多様な考えもあるわけで、時には排除も必要だというのは理解しておくべきですね。

多様化する社会とは本当に良い事なのか?色々な考えがあるのはあたり前の事!

昨日色々な人のツイートを眺めていたらこんなツイートを見つけました。
なんかテレビでやっていたらしいのですが、共働きの家庭で母親だけが家事をしていてそこに報酬がないのがおかしいと思う子供がいて‥‥
ああ、詳しくはツイート先を読んでいただければと思いますが、とにかくそのツイートに対する意見や、他のツイートも見ている時に、『多様化が求められるのに一つの考えに誘導するような道徳の授業はおかしい』というような発言を見つけましたので、ちょっと多様化について考えたいなと思った次第であります。

確かに現代、昔と違って男性が外で仕事をして、女性が家庭を支えるだけの家庭は減ってきております。
女性も働きたい、そう思って出ていく人もいれば、経済的な問題でやむなく働く場合もあるでしょう。
これからは多様化の時代で、色々な家庭を認めていく時代です。
だから確かにツイートの意味も分かりますし、子供が疑問に感じた事を一つの価値観で縛って別の結論に無理に導くような授業というのはおかしいですね。
私もこれに関しては賛成です。

ただ、多様化というのは本当に良い物なのかというと、これには少し疑問を覚えました。
時代の流れで仕方なく多様化はしていますが、それが人々の生活で幸せかどうかは、色々と考える余地があると思えるのです。
人間も馬鹿じゃありませんから、長い歴史のある国ではそれは今まで色々と試してきたはずです。
その中で一つの結論に達していたとしたら、それはある意味正解なのです。
それでも今はグローバル化の時代で、もちろんそうも言ってはいられません。
だから今日本では古き良き日本の価値観と、多様化する価値観が対立を始めています。
男性が働き、女性が家を守るというのもそうですね。
今はどちらも選べると言った感じですが、これからは共働きがあたり前になっていくのではないでしょうか。
そうしないと、海外との競争に勝てませんから、おそらくそれで仕方がないという事でそうなるのだと思います。
これは一旦多様化して、先に価値観が収束していくという事です。
多様化というのは一時的なもので、もしかしたらやはりどこかで結論に達してしまうものもありそうです。

もちろん、多様化したまま選べ続ける事ができるものもあるでしょう。
例えば結婚に関して、昔は20代後半には結婚して子供を産むというのがあたり前で、それができない人は白い目で見られる事もありました。
それが良いか悪いかは一旦置いといて、そんな時代は多様性のある時代へと変わり、何歳で結婚しようが、子供がいようがいまいが、一生独身であろうが、個人が自由に選んで行ける時代となりました。
私はこれに喜んだ方です。
一生独身の方が気楽でいいぜ!なんて思いながら若い頃を過ごしました。

しかし、今になって凄く後悔しています。
20代の頃に結婚して子供をつくって普通の家庭を築けていたらと思うのです。
年をとるほど相手を見つけるのは難しいですし、結婚もやはり今になってするべきだと思っています。
あたり前ですが自分も年をとり、いずれは身動きの取れない老人になるのです。
その時子孫がいないと、誰が私の面倒をみてくれるのでしょうか。
金を出せば老人ホームで暮らす事もできるでしょうが、とても寂しい気がするのです。
こんな事なら、『結婚は20代でするのが当たり前だからみんな結婚して子供つくれよ』ってのがあたり前だったら良かったのにとも思うのです。
確かに選べるというのは自由で素晴らしいと思います。
ただ結果も自己責任です。
ですがそうすると、甘えが出る人も大勢いるわけです。
私などはきっとその典型だと思います。
自分のやりたい事を優先してしまったが為に、今猛烈に後悔する事になったのです。
甘えない為にも、良い物は決めつけておく事もある意味正しいのではないかとも思うのです。

まあこれが正しいかどうかは、まだまだ私の中では結論が出ていませんけれどね。

そして実際、多様化によって現代社会で弊害もでています。
少子高齢化です。
子供を作らない自由、結婚しない自由、多様化したために子供が減ってきています。
多様化だけの責任ではありませんが、もしも結婚出産が義務に近い形で認識されていたら、こんな問題は起こらなかったのでしょう。
これに関しては今、別の方向から改善しようと努力がされています。
子育て支援や学校教育無償化などです。
でも、多様化した今の状態では、多少改善はできても、ある程度やりたい事は我慢して結婚して子供を作る事の必要性が共有できなければ、この国の人口は減る一方となるでしょう。

私は多様化について、何処までが良くて、何処までが悪くて、どれが良くてどれが悪いか、結論を出せる段階にはありません。
ただ、昔ながらのもので縛っているものにはそれなりに理由があり、多様化すれば確かに自由があってその時はいいのですが、社会を維持する為にはある一つの方向性を教える事も大切なのではないかという事なのです。

共働きで母親だけが家事をするのはおかしい、これだけ見れば全くその通りなのです。
多様化して、色々な価値観を共有しましょうというのも、色々な人が最高の幸せを求める為には必要だと思います。
でも、自由というのは社会に弊害を生む場合も多々あるのです。
この辺りよく考えなければならないのではないかと私は思います。

多様化というのは、決して自由で良いだけのものではありません。
デメリットも多々あります。
今後はそのデメリットを検証し、改善する為には何が必要なのかを考えなければなりませんね。

2018年4月25日水曜日

人を責める前に確認しよう!言葉によるセクハラを決める3つ+αのポイント!

誰かをセクハラ認定し責める前に、この3つは確認してほしいなと思い記事を書きます。
ほら、犯罪者じゃないのに犯罪者呼ばわりして責任を追及したりするのは違いますよね。
そういう間違いを犯さない為にも、セクハラを責める前に確認してほしいのです。
セクハラって凄くイメージが悪いじゃないですか。
このレッテルを貼られると、犯した罪以上の責任をとる事になっている気がするのです。
だから責める前に確認してほしいのです。
特に言葉だけの場合は注意が必要だと思うのですよね。
どういうシチュエーションで言ったのかも分かりませんし、良かれと思っていた可能性もあるでしょうから。

その3つのポイントですが‥‥

①性的な発言である事。
これは当然なのですが、意外となんでもセクハラという所があります。
それだと事実以上に悪い印象を与えます。
ちゃんと確認しておく必要があります。
性別的な発言も含みます。

②被害者が不快に思っている事。
この辺りは人によって違うわけで、本人の気持ちを確認しなければ分かりません。
そういう所がこの法律の問題点だと指摘する声も多いです。
ですがそういう法律なのですから、これはセクハラを責める前にしっかりと確認しておく必要があります。

③職場である事。
これは、基本的に上下関係があるという事です。
そのセクハラに対して不快感を示したり拒絶する事で、被害者の社会的立場が悪くなるという事です。
加害者は、被害者の弱みに付け込むという事です。
そういう関係が無ければ、もう会わないなどの対応ができますね。
報復などを恐れざるを得ない関係であるかも、セクハラとするかどうかの大切なポイントです。

この3つのポイントを確認してからセクハラは責めましょう。
もしもこのポイントを1つでも満たしていない場合は、セクハラとは言えない可能性があります。
責めるにしても、『それは相手の気持ちを考えていない発言だから止めるべきだ』など、セクハラという言葉を使わない方がいいでしょう。

さてではこれを踏まえ、福田財務次官のセクハラ疑惑について考えます。
既にセクハラだと責める声も多いですが、本当にそれでいいのでしょうか。

まず一つ目、性的な発言かどうかですが、これは出てきている録音などから、まず間違いがないと言えますね。
続いて二つ目は、被害者が不快に思っていたかどうかです。
本人の声は表に出てきていませんが、テレビ朝日がこれはセクハラだと認めている事など、話を聞く限りでは辛い思いをしていたと思われます。
よってこの条件も満たすでしょう。
では、三つ目はどうでしょうか。
女性記者は仕事として会ってはいますが、福田財務次官はテレ朝とは関係がないですよね。
では弱みに付け込む感じでしょうか。
福田事務次官の力によって、女性記者をクビにしたり、嫌な部署に移したり、減給したり、そういう事はできないと思われます。
例えば福田財務次官の親戚がテレ朝の社長だったりすれば別ですが、これはセクハラと認定するのは難しそうです。
それに弱みに付け込むというよりも、思惑に付け込んだ発言に感じますね。
女性記者は、なんとか特ダネを聞き出す為に会っているわけです。
福田財務次官は、それに対して話す義務は全くありません。
それでも話せというのだったら、福田財務次官にしても見返りは欲しい所でしょう。
性的なものはどうかと思いますが、見返りを求めるのは当然です。
とても微妙な所だとは思いますが、これでセクハラというのは、福田財務次官を必要以上に貶める行為となるでしょう。

ただし、このチェックではセクハラ認定が難しいにしても、ただ一つセクハラとできるポイントがあります。
それは、『本人がセクハラと認識していたかどうか』という事です。
例えば被害者本人から、或いはテレビ朝日から福田財務次官に『女性記者が嫌がっているので、性的発言は止めていただきたい』という話が伝わっていれば、それはその後に行われた発言はセクハラとなります。
そして悪質でもありますから、これは責任問題にもなってくるでしょう。
本人が認識していたかどうか、ここは大変重要です。
本人が認識していなければ、それがたとえセクハラだとしても、責任を追及するのは難しいです。
上記三つのポイントを満たしていたとしても、せいぜい今後はセクハラしないという誓約書を書かされたり、謝罪をする程度のものでしょう。
そこまでに会社や被害者に大きな被害が出ていた場合は別ですが。
しかし止めてくれと言った後にもやっていた場合、或いは認識していたが悪意を持って続けていた場合は、責任をとるべきです。
降格、減給、左遷、慰謝料の支払い、最悪クビもあります。
四つ目のポイントである本人の認識は、セクハラを責める上で最も重要な所なのです。

まあこうやってまとめましたが、人の価値観によって意見はあるでしょう。
ただ、法律的にはこんな所なのです。
人を責めるのなら、法に合わせて行いたいですね。
でないと、福田財務次官のように、過剰な責任をとらされる場合もあるのです。
辞任ですが、これは皆さんが責めたからそうなったのです。
本人が否定していて、法的にまだ分からない所があるのですから、これはやり過ぎでしたね。
結果どうなるのかはまだ分かりませんが、冤罪のような事が起こらないような世の中にしたいです。

とは言え、福田財務次官はちょっと嫌だとは思いますよ。{笑}
責める気持ちも分かります。
情報が欲しければキス、みたいな事を言っているわけじゃないですか。
好きだからとは言っていますが、情報を、恋愛を上手く進める為の武器にするのは、男としてなさけなくは思います。
ただ、 セクハラというレッテルだけは止めましょう。
他の問題につなげてしまおうとする人もいますから。

あくまで私の感想ですよ。
 ただし、この情報を公開した側も、こんな恥ずかしい情報を公開した事で、しかも勝手に録音した録音データなわけで、プライバシーの侵害、名誉棄損にあたる可能性もあります。
ちゃんと全部が分かるまでなんとも言えない問題なので、思惑が無い人はおとなしく今は見守りたいですね。

※最後に※
ちなみにこれは法的な意味でのセクハラで、言葉の意味としては『性的嫌がらせ』です。
つまり本人に嫌がらせの意図が無い場合はセクハラとは言えません。
あくまで言葉の意味としてですよ。

セクハラ問題について考える!その三!セクハラに対して正しい認識を持とう!セクハラは犯罪ではないよ!

先に、今回伝えたいセクハラの問題点を言っておきます。
それは、セクハラが犯罪として、或いは必要以上に悪い事だと認識されるように、レッテル貼りに使われている事です。
もうね、セクハラの認識はこの程度にしておきましょうよ。
『相手が嫌がらなければ何をしてもいい』
ポジティブに考えた方が良いんじゃないでしょうか。

セクハラを法的に調べてみると、実にバランスが良いとわかります。
被害者の気持ちで左右される部分はどうかと思いますが、それ以外は納得の法律です。

さてでは説明していきます。
セクハラを犯罪か何かだと思っている人が多そうですが、実はそうではありません。
性的な嫌がる行為、侮辱、悪口だと思ってください。
言葉のセクハラだけに限れば、『アホボケカスオタンコナスおまえの母ちゃんでべそ!』と言っているのと大差ありません。
それがあくまで性的なものに限られているだけです。
そう考えれば、道徳的によろしくない、或いはお行儀の悪い、優しさの足りない言葉ってだけで、そこまで否定されるものでもありません。
批判されるべき言葉ではありますが、相手がショックを受けたら、それに対してゴメンナサイと誤れば済む程度の言葉なのです。
では何故犯罪だと思われているかというと、行き過ぎるとちゃんと別に定められた犯罪に繋がってしまうからです。
侮辱、名誉棄損、強制猥褻、障害、色々あります。
アホボケカスでも毎日言ってイジメて、イジメられた方が病気になって入院すれば、犯罪となり得るわけです。
セクハラも、言葉としてはその程度のものだと考えていいでしょう。

でもセクハラは法的にも駄目だと定められているのは何故でしょうか。
あくまでそういう言葉は、セクハラ的言葉というのが正しいのかもしれません。
セクハラ的言葉がセクハラになるには2つの条件があるのです。
一つは相手が嫌がっている事。
これなくしてはセクハラにはなりません。
アホボケカスと変わらないのです。
そしてもう一つが、嫌がっている事を相手に伝える事で、被害者の社会的地位が加害者の手によって壊されてしまう可能性がある事です。

セクハラは男女雇用機会均等法に定められた会社の改善義務にあたる事柄にすぎません。
どうしてそういう事になっているのでしょうか。
それは、セクハラに関する会社の改善義務は、弱者を守る為の法律だからです。
友達や同じ立場で話せる人の場合、セクハラ的言葉を言われて嫌な思いをすれば、それを自分の手で避けたり改善する事が可能です。
しかし会社の上司と部下などの関係だと、それができません。
だからこそ法律でセクハラを無くすよう改善義務が定められているのです。

では、これを理解したうえで長尾議員のセクハラ発言と言われるものを考えてみましょう。
長尾議員は、福島瑞穂議員などに対して、『あんたらは俺にとって女としての価値がない』と嫌味を言ったように見えます。
これは決して良い言葉ではありませんが、これだけではセクハラにはなりません。
セクハラ的発言なだけです。
もしかしたら福島議員は『長尾議員に女性と見られる方が気持ち悪いから良かった』と思っているかもしれないのです。
そしたら長尾議員は良い事を言った事になります。
福島議員が不快を表明して、初めてセクハラ発言ではないかという風になります。

さて福島議員はショックを受けているでしょうか?
そういう反論は返ってきていないように思います。
それなのに長尾議員は謝罪をしてしまいました。
これは、嫌味に嫌味を重ねた事になる可能性があります。
『あんたらは俺にとって女としての価値がない』と言った後に『ああ、ごめんごめん。俺みたいな良い男に言われてショックだった』と言ったとも捉える事ができます。
まあ真面目な謝罪だったので、嫌味で言ったわけではないと思いますがね。

とにかくこれをセクハラとする為には、福島議員が『長尾議員のような良い男にそんな事を言われてショックだった』と言って初めて成立するわけです。

それでもですね、世間的にはなんとなくそれがセクハラ発言だと思われていますが、法的にセクハラ認定するにはもう一つの条件をクリアする必要があります。
社会的立場です。
同じ職場でと定められているのは、弱者を守るためだというのは先に説明しました。
さて、福島議員は弱者でしょうか。
長尾議員に言い返したら、社会的地位を失い、議員でなくなったりするのでしょうか。
そんな事はありませんね。
だからこれは『法的にはセクハラにあたらない』のです。

そうは言っても、何度もいいますが、決して長尾議員の言った事はいいものではありませんし、優しさに足りません。
批判は有ってもいいでしょう。
でも、これをセクハラとレッテル貼りして責めるのはいかがなものかと思います。
「行儀が悪い言葉だから止めた方がいい」とか、「相手がショックを受ける可能性があるから」とか、アホボケカスと同程度の言葉として否定するべきなのです。

セクハラとして批判する前に、まずは『言われた側がショックを受けているかどうか』そして『反論したら社会的立場など失ったり仕事に支障がでるのか』という部分を確認しなければなりません。
今回長尾議員の発言をセクハラと批判している人はやり過ぎです。
それは、セクハラというのが実態以上に悪い事だと認識されているのが原因だと思います。
または広く捉えられすぎているのです。

セクハラは、正しく理解する事が求められていると言えるのではないでしょうか。
むやみにセクハラという言葉は使わず、批判するならちゃんと正しい言葉で批判したいですね。

※色付きの文字の所は、半分冗談ですよ。
※あまりポジティブに捉えて、無茶はしないでください。

2018年4月23日月曜日

セクハラの問題点を分かりやすく!問題なのは痴漢冤罪が生まれるのと同じ!被害者のフリをして加害者にもなり得る!

セクハラの問題点に関して、少し前に記事にしました。

財務省福田事務次官のセクハラ問題が話題になっているので、セクハラの問題点について話そうと思う。

でもちゃんとまとめて書けずに分かりにくいのではないかと思い、改めて分かりやすく単純明快に伝えさせていただきます。

セクハラの問題点は、痴漢という犯罪が冤罪を生むのと同じ問題です。
それは‥‥

『被害者と加害者を入れ替える事ができてしまう』
『被害者のフリをして相手を陥れ加害者にする事ができてしまう』

という事です。

例えば痴漢では、わざと座っている男の横に立ち、お尻を触られたと騒ぎ罪人に仕立て上げようとした事件がありましたね。
もしこれで捕まって痴漢にされていたら、被害者が刑事罰を受けていた事になります。
女性の悪意で、男性は簡単に犯罪者に仕立て上げられてしまうのです。

セクハラも同じです。
女を武器に陥れたい男性からエロトークを引き出し、それを録音して公開すれば、女性は簡単にセクハラ被害者となり、男性は加害者となってしまうのです。
本当はそんな事をすれば、女性側が名誉棄損で刑事罰を受けるはずの案件です。
でも、今の状態はそれが可能なのです。

今、福田財務次官のセクハラ問題が騒がれています。
事実として出ている情報を一通り確認はしましたが、まだハッキリとした事が言える状況にはありません。
それなのに世間では、福田財務次官のセクハラの疑惑が、完全に行っていたかのような話として対応がされています。
セクハラ問題は、それでは駄目なのです。

女性記者が本当にセクハラにあっていたら、それは当然そのまま被害者ですし、何としても守るべき存在です。
ですが、セクハラというものは、被害者と加害者を逆にもできるものでありますから、慎重に疑ってかからなければなりません。
当然逆の場合を主張する人も現れ、被害者を更に貶めてしまうという問題が生まれたりもするのです。

これは、被害者にとっても良いものではないのではないでしょうか。

今インターネットでは、被害者のハニートラップを疑う書き込みが沢山あります。
それは、セクハラがそういう見方もできてしまうものだからです。
被害者とされる人の気持ち一つで犯罪にもなり得てしまうのですから、ちゃんと検証しなければならないものだという一面がセクハラにはあるのです。
だからむしろ、そういう声が出てくる事は、あって然るべきものなのです。

被害者となる人の為にも、セクハラはもっと明確な線引きが必要なのではないでしょうか。
これが有ったらセクハラという明確なモノがあれば、被害者が有らぬ疑いをかけられて苦しむ事もないですし、男性が陥れられる可能性も概ね無くなるのです。
そうすれば被害者の二次被害も避けられるでしょう。

世間では、「何でもセクハラと言っていたら何にも喋れなくなるじゃないか」という声も少なからずあります。
半分ネタで言っている人も大勢いますが、そう感じている事は事実です。
被害者の感情ではなく、世間一般的な価値観で判断できるものにする事が求められると思います。

2018年4月22日日曜日

法的な視点から福田財務事務次官セクハラ問題を考える!私の常識から逸脱するものでは無かった!

最初に言っておきます。
財務省の福田事務次官のセクハラ問題は、出てきている情報からはまだなんとも言えない状態です。
福田氏を犯罪者扱いしたり、むやみにテレ朝の女上司を叩いたり、女記者のハニートラップを決めつけたりするものではありません。

さてそれで、この問題を今まで私は『世間の雰囲気と私の価値観による常識』だけで見てきました。
でもそれだとこの先は判断できないと思い、ちゃんと法律を調べて見てみる事にしました。
(今まで法律も理解してなかったんかーい!<自分でツッコミ>)
そうするとまあそれは、私の常識から逸脱するものではありませんでした。

まず、今回犯罪になり得ると世間一般で思われている所は、セクハラ発言自体と、勝手に会話を録音したというこの2点ではないでしょうか。
それでもセクハラを受けていたのなら、裁判になった時に証拠が必要だし、録音は仕方がないというのが世間一般の感じ方だと思われます。
で、録音に付いて調べた結果、会話を勝手に録音する行為は『犯罪にあたらない』という事です。
へぇ~初めて知りました。{汗}
『録音しないと証拠が』って思う事は今までに何度もあり、これは変だと思っていたのですが、まああたり前と言えばあたり前でしたね。
例えば録音した音声を公開し、その会話で馬鹿にしたり、オフレコで内緒にしていた事を公開したりと、プライバシーの侵害をする事が違法であって、真っ当な理由で録音をする事は違法ではないのです。

次にセクハラですが、セクハラは基本職場での性的、性別的な発言や行為によって辛い思いをさせてしまう事のようです。
法的には男女雇用機会均等法の一部にあたり、罪としては『職場の改善』や『慰謝料』という対応になります。
でも実際は犯罪としての印象が強いですね。
それは、強制猥褻や名誉棄損、侮辱罪など、別の犯罪に結びつくケースがあるからで、セクハラ自体は犯罪とは少し違うようです。

まあここまで調べて私は安心したといいますか、私の価値観で常識通りの法律で良かったと思います。

さてそういう知識を得た所でこの福田氏の女性記者セクハラ事件を見てみましょう。
まず先に勝手に録音して雑誌社に持ち込み公開した事は、福田氏のプライバシーを侵害し、名誉棄損を行ったと取られる可能性があり、これ自体はあまりよろしくはなさそうです。
証拠は裁判で出す為、或いは会社へ伝える為のものとして使うのが良かったのでしょう。
ただしこのセクハラがセクハラの枠を越え、強制猥褻など犯罪になり得る場合は考える余地があるりそうです。
ただ、現段階では何とも言えません。

次にセクハラですが、前にも書いた通り現段階ではなんとも判断ができない状態です。
それでも現状女性記者が被害を訴えているとして、それなりにセクハラがあったとしたら、一番悪いのは法律的にはテレビ朝日という事になりそうです。
今回のセクハラは、規定通り仕事中、職場での話となっています。
職場は仕事をしている場所全てで、飲み屋で取材を行っている場合もそこが職場と言えます。
そしてそのセクハラを知った場合、改善義務は会社にあります。
取材記者を代えるなり、取材を取りやめるなどの対応が必要だったのでしょう。
もちろん、セクハラ加害者に対しても本来なら慰謝料の請求が可能です。
しかしこちらは職場の人というよりは取引先相手です。
嫌なら取引を止める事も可能で、おそらく慰謝料を請求しても通らないでしょう。
よっぽど酷ければ別かもしれませんが、現在出てきている情報からは全く問題がないように思えます。

とは言え、私の価値観で言えば、今回のこのセクハラ事件は、『誰も悪くない』という結論ですね。
何度も言いますが、あくまで現在出てきている情報を見る限りではですが。
女性記者が何故名誉棄損にあたるかもしれない録音公開に踏み切ったのか、この辺りの方が今後まずい事になる可能性さえあります。
よっぽど精神を病んでいてどうしようもなかったとしたら仕方がない所ではあると思いますが、その場合今の状況ってどうなんでしょうね。
もしもそこまで病んでいたら、警察に相談するべき所まできていたと言えるでしょう。
それで内々に調査をして、被害者の人権をしっかり守りながら結論を出すべき問題でした。

そしてもしも女性記者がそこまで病んでいたら、野党が『麻生財務大臣辞職しろ!』と訳の分からない事を叫んでいるのが一番の人権侵害ではないかと思うのです。
本来は、被害者の事もあるので結論が出るまで弁護士の調査に任せましょう、というのが普通です。
被害者の女性記者の事を思えばそうします。
でも何故か法的にも常識的にも全く関係の無い麻生財務大臣が責められているのです。
責めるにしても法的にはテレビ朝日を責めるべき問題なのです。
仮に福田氏が犯罪者とされるにしても、そんな事でトップが一々責任を取っていたら組織が成り立ちません。
警察官の犯罪が時々報道されますが、そのたびに警察のトップが辞めていたら組織がグチャグチャになります。

そんな変な理屈で野党が騒ぐものだから、おかしいと思う人が事実関係を明らかにして本当はどうだったのか調べ、色々な憶測が飛び交って、女性記者がハニートラップをしたなんて話が出てくるのです。
それで傷つくのは被害者なんですよ。
女性記者の人権を最大限尊重するのなら、ここはまず弁護士に事実を調査してもらい、適切な対応を取ってもらうのが最善ではないでしょうか。
今後どういう結論になるのかは分かりませんが、福田氏ももしかしたらあらぬ罪をきせられて職を辞する事になったと被害を訴えるかもしれません。
それも全て悪いのは、よく分からない騒ぎ方をした野党議員、或いはマスコミなのではないでしょうか。
騒ぐにしても、『被害者を守れ!事実関係を明らかにして適切な対応を!』と言うべきです。

まだ結論はでていません。
あくまで女性記者がセクハラに相当苦しんでいたという前提の話です。

とにかく結論を出すのは、全てが明らかになってからにしないと駄目です。
被害者の女性記者の為にも、ここは静かに事の行方を見るのが正しいと思います。
(↑主に野党とマスコミが麻生財務大臣を叩く事を止めろって話ですよ)

2018年4月21日土曜日

住み良い社会にするだけでは駄目!日本人は精神力を鍛えよ!セクハラ、イジメ、体罰問題に関係する話

最近はセクハラ問題が騒がれていますね。
そして前にはイジメ問題や体罰の問題なんかもありました。
このどれにも共通するのが、弱者を嫌な気持ちにさせるという所です。

そこで我々は、セクハラは止めよう、イジメを無くそう、体罰は禁止という具合に弱者を守ろうとしてきました。
こうすれば嫌な気持ちにならなくて済みますし、素晴らしいですね。

しかしですね、私はこれ、問題があると思っています。

例えばイジメを見ると、『その程度のイジメで自殺するの?』ってニュースがよくあります。
私が学生の時代だったら、クラスの男子の半分が自殺していてもおかしくありません。
体罰も、少し頭を叩いただけで大問題です。
或いは廊下に立たせただけで責められます。
セクハラはもう何でもセクハラの一言で片づけられるくらい幅が広くて把握しきれません。

それでもその悪い所を取り除けば、社会は住み良くなっていくのでしょう。

でもですね、よく考えてください。
世の中そんなに甘い世界ですか?
悪いヤツはいなくなりますか?
理不尽な事は無くなると思いますか?
たとえ日本でそれができたとしても、これからの未来はグローバル化がドンドン進むでしょう。
日本人はこの先、世界と戦わなければならないのです。
そこで、今日本が向かっている方向で太刀打ちできますか?
理不尽に負けて、気が付けば日本は中国の支配下に入っているかもしれませんよ。
その時、『中国人は日本人を好きにイジメてもいい』なんてのが常識の世界になるかもしれません。
果たしてこのまま進んだ先の日本人が、その理不尽を跳ね返せるでしょうか。
或いは少なくとも耐えて行けるでしょうか。
年間自殺者が100万人を突破とか、そんな悲しい未来になる可能性があります。

だからですね、確かにセクハラはいかん、イジメかっこ悪い、暴力教師反対、とは言えですね、だったらそれとプラスして、強い精神力を鍛える事もしていく必要があると思うのです。
女性だって社会に出て世界と戦っていくんだとしたら、なまっちょろい考えでは駄目でしょう。
世界にはまだまだ理不尽がいっぱいなのです。
小さい頃から柔道や剣道なんかで精神力を鍛え、強い人間にならなければなりません。

まあそうすると、自然とセクハラやイジメ、暴力教師にも負けない人間になって、問題が問題でなくなる可能性もあるわけです。
精神力を鍛えられたら、セクハラやイジメをしようとする人もいなくなるし、機嫌が悪いからと教師が生徒にあたる事もなくなるでしょう。

住み良い社会にするという発想は否定しません。
でも、今の日本に大切なのは、心身共に強い子供を育てるという事ではないでしょうか。
これからの時代を考えても、理不尽に負けない人材が必要です。
少し発想の転換をして、みんなで強くなるという方向を目指してみるのが良いのではないかと私は思います。

2018年4月19日木曜日

財務省福田事務次官のセクハラ問題が話題になっているので、セクハラの問題点について話そうと思う。

テレビ朝日の女性記者が、財務省の福田事務次官にセクハラを受けたとされる報道が世間を騒がせています。
なのでこの機会に、セクハラの問題点について少し話そうと思います。

まず最初に、私の事を少し話しておきます。
私は若い頃から下ネタが大嫌いで、今でも私はそういう風に思われています。
実際下ネタは話さないし、今も好きではありません。
ただ、好きになれない理由は、話の中でプライベートな話になるからで、まあ相手のある話ですから話さないのがマナーだと私は考えているからです。
そして実際に下ネタが嫌いだという人も一定数いるわけで、だったら話さない方がいいと私は思うわけです。
しかし、下ネタに関しては、男女問わず好きな人も多く、飲み会の席なんかでは話が盛り上がってしまうのも事実です。
だから自分の感情だけでこれを否定する事はできないと現在は考えています。

さてそれでセクハラですが、セクハラとはなんでしょうか。
性的な話をして相手に嫌な思いをさせてしまう事だという認識です。
正確には性別的な話というべきでしょうか。
例えば男性が女性に対して『綺麗な髪だね』と言っただけでも、それを女性側が嫌だと感じれば、それはセクハラとなってしまいます。
男性としては喜んでもらえると思って言うわけですが、相手が嫌がればそれはセクハラになってしまうのです。

セクハラの問題点の一つに、何がセクハラになるのか分からないという点があります。
相手が喜ぶのか嫌がるのか分からないわけで、嫌がればセクハラになるのです。
それも性的なものに限定されず、予想できない所にまで広がっています。
だからセクハラを犯罪とするには無理があるのです。

そこで必要なのが、セクハラを受ける側も、それがセクハラになるという事を意思表示しなければなりません。
それがないと、誰もがセクハラで訴えられる可能性があるからです。
痴漢の冤罪と同様、女性の気持ち一つで男性は犯罪者となるのです。
例えば『そんな事は言わないでください。セクハラになりますよ。』と、しっかり相手に伝える必要があります。
或いは直接言えない場合は、誰かに伝えてもらう必要があるでしょう。
でないと男性側はそれが良いのか悪いのか判断できません。
性的な発言も、男女の間では必要になる場合があります。
セクハラ被害を訴えるには、必ず先にそれがセクハラになるという事を伝えておく必要があるのです。
なのにその辺が曖昧なのも問題点となります。

他にも問題点はあります。
性的発言(性別的発言)というのは、男女問わず好きな人が多いという事です。
嫌いな人もいますが、好きな人もいる、厄介な話題なのです。
しかも好きな人の間では、普通の会話よりも凄く盛り上がってしまうのです。
だからついつい相手が喜んでくれると思えば、男女問わず話してしまうのです。

そして注意していても、酒の席では好きな人は言ってしまいます。
次の日には覚えていない人もいて、正直酒の席でセクハラ発言をするなと言っても無理です。
それに少なくとも私が共に酒を飲む女性は、半分が積極的に下ネタ会話に参加しています。
まあ今でこそ時効と言う事で大昔の話をすると、高校生レベルでも下ネタ会話を積極的にします。
あの時は正直ショックでしたね。{苦笑}
私の女子高生に対する夢が全て打ち砕かれた瞬間でした。
逆に言えば、あの時私は女子高生からセクハラされた側という事になりますね。
本当に気分が悪かったですよ。
でも、それをセクハラとして訴えるとか、そういう気持ちは今も無いですけれどね。

そんなわけで、セクハラという犯罪にはいくつも問題点があります。
性的でない言葉も含めて、人を不快にする発言なんてものはいくつもあるのです。
そしてそれは人それぞれであり、一概には言えません。
そんなものを犯罪とするには無理があるのです。

私は男ですが、女性からセクハラ発言になり得る事を言われた事もありますよ。
不快な思いをする事も何度もあります。
それでも、それを犯罪とするのには、正直違和感を覚えます。
道義的道徳的な問題であって、犯罪とするにはそこから一歩先というか、ハッキリとした行為が必要かと思います。

酒の席でみんなが盛り上がっているのに、自分だけ不快だからと文句が言えますかね。
男女の間の話なんだから、色々ありますよ。

今回の福田事務次官のセクハラ問題、セクハラをされたとされる女性記者は、ちゃんと伝えていたのでしょうか。
『そういう事を言うとセクハラですよ。止めてください。』
ちゃんとそう言っていたのにあえてそれを言い続けたとしたら、それは悪質な嫌がらせですから罪を問う事もできるでしょう。
でも、そういう事を伝えていなかった、或いは酒の席での話となると、二人きりなら男性側も勘違いしますよね。

その辺りがどうだったのかハッキリしないので私はその件に関してはなんとも言えませんが、セクハラという犯罪には問題点があるという事を、今日はお伝えしておきました。

2018年4月18日水曜日

どうしてみんな左だ右だとこう極端なのだろうかと思い続けて‥‥あたり前だけれどそうならざるを得ないんですね。

最初に、全く関係のない話からさせていただきます。
本日歩いていると、足元で違和感を感じました。
すぐに見てみると、どうやら犬のウンコを蹴ってしまったようでした。{汗}
『だれだよ!』と思いましたが、幸い踏んだ感じは無かったのでホッとしていました。
しかしその後なんだか臭いと思い靴の裏を確認すると、ちゃっかり全力で踏んでいました。
本当に、本当に犬のウンコはちゃんと持って帰ってください。{泣}

では本題です。

政治や歴史を勉強し始めた頃、『どうしてこう人々は極端なのか?』と疑問に思いました。
私は別に左派でも右派でもないと思っているのですが、ある人からは左翼だと言われ、別の人からは右翼と言われ、訳が分かりません。
まあ左端から見れば他は全て右翼であり逆も然りなわけですが、そういうのとは少し違う気がします。

私は脱原発派であり、世界は一つでみんな世界市民というのには賛成しています。
だから左翼だと言われるわけです。
しかし急に脱原発を行うのは問題があるし、徐々に方法を考えてやるべきだとも思うわけで、そうすると今度は右翼扱いです。
世界の統一も、文化や価値観の違いがまだまだあり、急には無理だと言うとこれもまた右翼になるようなのです。
これらは単なるレッテル貼りだとは思うのですが、どうしてどちらかの思想を持つ人というのは、こうも極端なのでしょうか。

その理由が、あたり前の事なのですがようやく分かりました。{苦笑}

戦前日本は、『鬼畜米英』と叫び、戦争に突入していきました。
しかしおそらく内心ではそうは思っていない人も大勢いたでしょう。
でもそれが声として表に出てこなかったのは、今を見れば分かると思います。
マスコミは常にどちらかに偏っていて、なんとなく言えない雰囲気がありますよね。
人権を大切に、差別は駄目だ、平和で自由な世界を、と言えば確かにそれは正しく、そう思わない所があっても否定しにくいです。
世間にはそういう空気があるのです。
それでも、幸い今はインターネットがあるので、その本心を表に出していく事ができます。
だから戦後の世界に対して「No」を言える人が出てきて、今世界は大きな転換点を迎えているわけです。

それにしても今まで、インターネットが無かったにせよ、どうしてこの方向性に対して何も対応ができなかったのでしょうか。
どうしてそんな空気が生まれ、その偏った方向に突き進んできたのでしょうか。
おそらく途中、丁度いいところがあたはずなのに、 きっと気が付いていた人は大勢いたでしょうに。

その理由は、その世界で既得権が生まれ、みんな己が利益を追求してしまっているからだと気が付きました。

戦後、我々はGHQの方針で人権、平等、平和、自由という方向で国家運営をしてきました。
するとそこには、その方針にそって利益を獲得する人がでてきて、既得権ができ、それがドンドン大きくなってきたわけです。
するとその既得権を持つ人は、もうそちらにまっしぐらに進むしかなくなるわけです。
それが行き過ぎた間違いになってしまった場合であっても、自分の利益を考えると、その間違いが正しい事になるのです。
そうして日本は、左に左に進む中で、丁度いい位置を通り過ぎ、すっかり極端な考えをするおかしな人が大勢いる社会となっていたのです。

戦前は悪いヤツは叩く、日本人は絶対に守るという正義の中、そういう国にまっしぐらだったんですね。
その正義に反する事は言いにくく、その正義の中で社会が構築され、その中で上手くやっていく術を国民が持ち、その方向性を変える事は、多くの国民の不利益となっていったわけです。
結果を見れば違ったと言わざるを得ないのですが、もう右に進む為の歯車として、国民が構築されてしまっていたのですね。

今はと言いますと、左に進む為にあらゆるものが構築されてしまっています。
かなり行き過ぎていると気が付いていた人も大勢いたでしょうが、自分がもう既にその歯車の一つになっていて、今さら方向転換が難しいのです。
中には左に進む歯車にがんじがらめになっている人もいるでしょう。
そんな人は、生きる為に尚も左に進むしかないのです。

つまり、世の中バランスがとれないと、極端な思想は更にドンドン極端にならざるを得ないのです。
そして間違いが声となって表に出てくる頃には、かなり極端な世の中になっていて、戻すにもその幅は大きく、どちらも極端になってしまうのです。
幸い今は、確かに左に寄り過ぎたとは言え、まだ許容範囲内です。
だから左側の人の意見は頑なに極端ですが、戻す方は大きく戻すべきだという人もいれば、少しずつ戻していこうという人もいるのです。

どうして人は極端な方向に進もうとするのでしょうか。
それは、ある方向に向かって進んでいた世界が、既得権や生活を作ってしまっていて、それが間違いのエリアに入っていても、 それを認めたら既得権や生活を失ってしまうから、更に間違った方向に進もうとせざるを得ないんですね。

今、国家国民の為と考えれば、明らかに極端でおかしな事を言っている人が大勢います。
それは、今までの世界がつくりあげてきた既得権なりを失いたくないから言うしかないのです。
もうゴールをして逆に離れていっていると分かっていても、左に進む担当として力を大きくしてきた人は、それが辞められないのです。

そう考えると、人はバランスをとっていくのが苦手なのかもですね。
それでもなんとか手を尽くしてバランスはとっていかなければなりません。
中国は、皇帝の誕生と打倒を繰り返しバランスをとってきたのでしょうか。
日本は世界の中でも早い段階で気が付いて、安倍政権が誕生しましたね。
その前には、プーチン、習近平がでてきていました。
後にはトランプやメイ、蔡や金正恩によって、世界は大きく方向転換しようとしています。
行き過ぎてしまってからの方向転換なので、民主主義国家は抵抗勢力に悩まされていますが、果たしてうまくやれるのでしょうか。

なんだか上手く伝わりそうにない文章になってしまいましたが、言いたい事は伝わったかと思います。
ある方向に進む世界が人々に色々な利益権力を与えてしまっているので、そこで美味しい思いをした人は、もうその方向以外には行きたくないんですね。
だから言っている事が極端に外れた事になるのです。

今は戻る時です。
多くの人がそう思っています。
だからなんとかうまく、方向転換したいですね。
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