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2019年6月19日水曜日

差別批判とは『不当と思われる差がある結果』ではなく『不当に差を付ける行為』を指して批判する事!

日本語って色々難しいですね。
というか全ての言葉ってのがそうではないでしょうか。
複数の意味があったり、定義や意味が曖昧だったりします。
放送禁止用語のキチガイだって、それは色々な意味があり、人を褒める時に使われる事だってあるのです。

差別という言葉も非情に曖昧で判断が難しいですよね。
差別化を図るなんていうのは、概ね良い行いなわけですが、一方でなんでもかんでも差のあるものを差別と批判する人もいるわけで、批判するならそれが悪いという事でなければならないはずです。
良い差別を区別という人がいますが、これももちろん曖昧な部分で、それなら『差別化を図る』ではなく『区別化を図る』というべきなのです。
厳密にいえば区別は『違うモノと認識する』事であり、そこから『差を付ける』事でそれは差別となるのです。
この時、この差を付ける行為が正当で有れば多くの人は区別と表現するし、或いは正当であっても差別と表現する人もいます。
日本語としてはどちらも『差別』と表現する方が正しいのでしょうが、正当な差別を批判する人がいるから『仕方なく区別と表現している』人が多くいるのだと思います。

私はこの辺りで、差別には『正当で悪くない差別』と『不当で悪い差別』があるという事をまずは全ての人が理解しておかないといけないと思うのです。
その見分け方として、私はいくつか記事を書いてきました。
①『行き過ぎた差別批判問題!『 #KuToo 』から女性差別批判が限界突破!!
②『自分で自分のロジックを論破していくスタイル!{笑}この世に絶対はない!『 #KuToo 』運動の葬儀屋バイトのパンプス強要が女性差別ではないという話
簡単に説明すると、物事には原因と結果があり、差別原因である区別要素を排除すれば差別という結果は起こりえないというロジックで、それが差別ではないという事を判断するものです。
2つ目の記事でも書いている通り、これは100%正しい判断とは限りません。
結果があるのに、そこに差別意識があったかどうかは分かりませんからね。
でも、差別批判はできないだろうという結論にはなりますね。
その辺りを今日は説明できればと思います。

差別には意味が色々あり、良い差別もあれば悪い差別もあります。
当然批判すべきは、悪い差別です。
良い差別まで一緒にして批判しては、それは無実の人に罪をきせて冤罪にするようなものです。
犯罪が確定した人を批判するのは良いですが、逮捕された人を批判した後無罪になる事もありますよね。
差別も同じで、それが悪い差別だとある程度言いきれる時だけ批判するのが正しいと言えるでしょう。
そうでないと社会もおかしくなってしまいます。
ですから、それが良い差別なのか悪い差別なのか、ちゃんと説明できる事が差別批判の最低限の条件でしょう。

そして差別批判は、『不当と思われる差がある結果』を批判するものではなく『不当に差を付ける行為』を批判するものです。
親切心から差を付けたら、結果逆になってしまう事もありますし、或いはその逆もあります。
女性はスカートが好きだと思ってユニフォームにスカートを採用したら、嫌いだと言う人もいるわけです。
嫌いなヤツに小さなケーキ、好きな人に大きなケーキをプレゼントしたら、大きなケーキは腐っていて、結果小さなケーキを貰った方が良かったという事もあるでしょう。
平等にしようとサイコロの出目の10万倍の給料にする事で同意し、結果男性が40万、女性が10万になる事もあります。
平等に決めても結果不当な差がつく事はあるのです。
だから、差別批判というのは結果から批判してはいけないのです。
それに結果を批判した場合、それは『嫌な事全て』を『差別』と批判する事ができてしまうからです。
「うちの会社の給料が低いのは差別だ」「躓いてこけたのは道路整備が遅れているこの町を差別している」なんでもこじつけが可能です。
世の中で悪い事や嫌な事が起こった場合、そうではない人が必ずいるわけで、その人と比べて差別だという事ができてしまうのです。

だから、何度も言いますが差別批判は、『不当と思われる差がある結果』 を批判してはいけません。
必ず『不当に差を付ける行為』を批判するものなのです。
ちなみにヘイトスピーチなんかは、言葉に出して言っているものなので、そこに意思があったかどうかは判断しやすいです。
だから批判対象となり得るかどうかはすぐにある程度は判断できます。
ただし、以前からずっと言っている通り、差別するには理由があって、その理由に正当性があるかどうか、人々の価値観によって判断に差が出てしまうものです。
差別批判できると思われるものでも、自分の価値観が人々と比べてどうなのか、理由をしっかり検証してから批判するべきでしょう。

それで、『不当に差を付ける行為』を批判するものだとするならば、『不当に差を付けたかどうか』という『差別意識があったかどうか』というのが重要になります。
上記した通り、親切心、或いは差を付けるつもりがなくても差がつく事はあるのです。
つまり『差別批判をするのなら、そこに差別意識があったかどうか』というのが重要になります。
差別意識がないのにそれを批判しても、そんなもの無くなりません。
或いは無くす為には区別要素そのものを無くすしかなくなります。
例えば性差別なら、男性、或いは女性どちらかを完全に消すしか対処方法がないのです。
何かを批判するのは、『問題を解決したいから』批判するのです。
解決できない批判をしていても意味がないのです。
差別批判は、差別した人に対して考えを改めよ』というものです。
道徳的に人としておかしいだろうという批判です。
その辺りしっかりと理解しておかないと、おかしな差別批判になるのです。

まとめです。

①差別には『正当で悪くない差別』と『不当で悪い差別』がある事を知っておく。
②批判すべきは、悪い差別である。
③差別批判は、『不当と思われる差がある結果』を批判するものではなく『不当に差を付ける行為』を批判するものである。
④差別批判をするのなら、そこに差別意識があった事を説明できる必要がある。
⑤差別批判は、差別した人に対して『考えを改めよ』というものであり、結果だけ改善しても差別は無くならない。

こんな所でしょうか。

おそらく厳密にいえば例外とかそういうのもあるかもしれません。
でも差別批判をするならば、とりあえずこの辺りの確認だけはしてほしいと思います。

※※追記※※

大切な事を書くのを忘れていました。
差別というのは、法律で規制するべきものではありません。
何故ならこれは、『行為規範』『道徳規範』であって、『裁判規範』ではないからです。
差別意識というのはおそらく誰もが持っていて、それは多くの場合心の中にとどめているものですが、流石に心の中までは規制できませんよね。
あくまで道徳教育の問題であって、法律で規制するものではないのです。
だから、憲法に『平等』とか書かれていても、現在の日本では『何それ?』状態です。
ドイツやアメリカでは、『憲法裁判所』や『裁判所』で判断されていますが、だったら最初から裁判で判断すれば良いというものです。
現在の日本では、実は肝心な憲法判断は、『内閣法制局』が独占的に判断する権利を持っています。
憲法に関しては、内閣法制局の独裁国家と言えるでしょう。
つまり、憲法に『平等』なんてものは書かない方が国民の為には良いという事なのですよ。
ちなみに明治の大日本帝国憲法には行為規範は無いそうです。
その代わり、教育勅語によって大切な行為規範は守るように広められました。
話がそれましたが、何にしても『差別を法律で規制するのはおかしい』のです。
もっとも、酷い結果をもたらすものに関しては、個別に法律で禁止する事はありますよ。
名誉棄損、侮辱、殺人、差別による犯罪はあります。
ただ、差別そのものは規制できないという事です。
基準も個人の価値観で大きく変わりますからね。

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