最近思う事があります。
何かを知るという事は、それだけ楽しみが増えるという事のようなのです。
江戸の頃、人々はとにかく勉強がしたいと思っていました。
賢い事に優越感を持ち、賢い人が尊敬もされました。
そういった理由から勉強をする人が多かったのもあるでしょうが、最近思うのです。
勉強して知る事で、同じ事をしていても何倍も楽しく感じると。
だから勉強をしていたのではないだろうかと。
神社巡りを始めた頃は、楽しいからという理由ではありません。
単なる興味からです。
しかし巡り勉強をする事で、ドンドン行く楽しみが増えました。
今ではなんとなく神社に参拝していた頃の何倍も楽しく感じます。
なるほど、おそらく昔の人はこういう感情が生まれたから勉強をしていたのだと分かりました。
でもそれって今と何が違うのでしょうか。
今でも勉強が好きになっておかしくないのではないかと思うかもしれません。
でも今と昔ではまるで違うのです。
まず、勉強の内容が最初から決められています。
興味を持ったものを勉強するのではなく、皆同じなのです。
同じだからそこで順位が付いてしまいます。
国語で一番の人は国語が楽しいでしょう。
数学で一番なら、それが自分の得意分野だと認識します。
でもそうでない人達は、他に何もなくなり勉強が嫌いになるのです。
昔はどんなことを勉強しても良かったのです。
まあ文字が読めなければ本が読めませんから最低限って所はあったにせよ、自由に勉強するだけだったので勉強が楽しかったのです。
更に、今とは世の中の情報量に差があり過ぎます。
昔の日本は、庶民の識字率の高さだけで海外から驚かれました。
文字の読み書きができるだけで凄いのです。
そんな情報量ですから、ある程度必要な事を全て覚えるのに難しい事などありませんでした。
だから生活に関する知識はすぐに頭に入り、生活全てが今よりも興味深く、また幸せを感じていたのではないかと思います。
もしも今、あらゆる分野である程度の知識を持っていたら、世の中はもっと楽しいものとなるでしょう。
私が神社の知識を得て神社に行けば楽しかったように、それは何処で何をするにしても通じる話です。
野球の試合を見るにしても、ルールを知らずに見るのと知ってみるのとでは楽しさが違いますよね。
スポーツのルール一つでも、より多く知っていた方がオリンピックシーズンはより楽しめるのです。
昔は今よりもできる事やれる事が少なかった分、知っている事が身の回りに多かったはずです。
だから今よりも楽しさを感じる事は多かっただろうし、その気持ちも大きかったと思われます。
昔の人は今の人よりも感情的だった気がしませんか?
そして世の中の情報量が増えれば増えるほど、例えば友達との共通の話題も減ってゆき、感情的に話す事も減るのです。
食べ物がおいしくなったとか、医療が発展したとか、今の方が良い事も多いですが、楽しさを感じる感情に関しては昔の方が良かったのではないかと最近思います。