多様性のある社会が素晴らしいような風潮があります。
私はこれは危険だと感じますから、今日はその辺りも含め、多様性についてお話したいと思います。
まず、多様性のある世界とはなんでしょうか。
多種多様な人々が共存する世界でしょうか。
違います。
多種多様な人々が上手く住み分けをして存在する世界の事です。
つまり、今の世界は、既に『多様性のある世界』と言えるのです。
なのに世界を一つにしたい人は、何故か多様性のある社会を求めます。
日本を多様性のある社会にするというのは、国を分ける事に他なりません。
これは歴史に逆行する危険な考えです。
たとえば東京は日本人が、大阪は中国人が、愛知は韓国人が、みたいに住み分けて存在する社会です。
そんなものを求めているわけでは当然ありませんよね。
おそらくは『多種多様な人達が共存する社会』にしたいと思っているのです。
でもこれ、それなりにはできても、完全に共存なんて不可能です。
例えば日本を多種多様な人々が共存する世界にしたとして、みんな言語が違って生きていけるでしょうか。
成り立つでしょうか。
日本は明治維新の時に、廃藩置県で藩を無くしある意味統一しました。
その時、言葉の問題を無くすために標準語を定めたのです。
日本で生きていくには、最低限日本語の読み書きと会話ができなければなりません。
どうしても共存ができない違いや文化もあるのです。
それでも日本は寛容な国で、宗教なんかは受け入れやすいと言われています。
神道は仏教を受け入れ、今あらゆる宗教を受け入れています。
でも、果たしてこちらが受け入れても、入ってきた人は神道を受け入れているのでしょうか。
仏教なんかには、未だに『鳥居の下をくぐるな』なんていう所もあります。
それでは上手く共存はできませんね。
共存するには、両方が認め合わなければならないのです。
それだけではありません。
日本が全ての宗教を認め合えたとしても、認めた宗教同士が認めるとは限らないのです。
イスラム教シーア派、スンニ派、キリスト教プロテスタント、カトリック、ユダヤ教、色々な宗教同士が認め合えるのでしょうか。
認め合えなければそこに対立が生まれ、社会を維持できなくなる可能性があるのです。
世界を一つにっては、実は認め合えないものは排除していくという事なのですよね。
つまり世界を一つにしたいというのは、多様性を失わせるって事なのです。
それを分かって『世界を一つに』と言っていない人が多い気がします。
多種多様な人々がそれなりにできる限り共存という事なら可能でしょう。
でも本当に世界を一つにするには、かなりの多様性を失わせるのです。
そんなわけで、「世界を一つに!」と「多様性のある世界」を同時に言っている人は矛盾しています。
その辺りよく考えて発言してほしいですね。